「やあ、ニンゲン」
なんの気なしに立ち止まって、そこにたまたま居た猫は、鼻をつんっと突き出して僕に話しかけた。
猫は言う。
「なあ、なにか食べるものは持っていないかい?わたしはロクなご飯を食べていなくてね。お腹がペコペコなんだ」
僕は訝む。その猫は食べていないと言う割には丸々とふくよかで、毛並みこそ汚れていたものの、食べ物に困っているようには見えなかった。
「食べていないように見えないよ。そんなに大きな体をしているじゃないか。」
僕がそうやって言うと、猫はため息でもするように首を少し下げて、すっと立ち上がった。
「やはりそう見えるかい、キミたちには」
トッ、トッ、と歩きながら猫は続けて言う。
「ニンゲン、いやわたしたちネコのヤツらもみんなそうさ。見ただけで全部わかったような気になっている。いやいや、そう思うのはわかっているんだよ。だけどね」
くるっ、と左に周りに回って、その猫は細い目で僕の顔を覗き込んだ。
「わたしはお腹が空きっぱなしなんだよ。本当さ。この眼が嘘をついてるように見えるかい?」
僕は正直とても困った。
「猫の目の違いなんて僕はわかんないよ」
思わず苦笑いが出てしまう。
猫はそうかいそうかい、と言いたげに、ふんっとそっぽを向く。
続けざまに僕は言う。
「お腹が空いているなら僕じゃなくて仲間に頼んだらどうだい?余った食べ物ならくれるかもしれないよ」
猫は耳をぴくんと傾け、ゆら〜りとこちらを向く。
「仲間って誰のことだい?」
「誰って、そりゃ他の猫たちだよ。たった1匹で生きてるわけじゃないだろ?」
一瞬キョトンとした顔を見せたかと思うと、猫はくすくすと笑いながら言った。
「キミにはわたしがどう見えるのかな」
スタスタと歩きながら得意気に猫は話す。
「ニンゲンたちは何かを食べるために、服を着て、話を聞いて、前足を動かして、後ろ足で歩く。それでやっと食べ物にありつけるだろう。わたしたちも毛と整えて、話を合わせて、無様に擦り寄って、そして獲物を獲るのさ」
僕の2、3歩前まで歩いてきて猫は座る。
「だけど、わたしはそんなこと意味がないのさ。毛を整えられるほどキレイな場所もない。話を合わせる相手はいない。もたれかかる相手もいないし、食べ物なんか残っちゃいないよ」
そう言い終わって猫は僕の顔を、ニャニャとしながら眺めていた。僕には何を言っているのかよくわからなかった。だから聞いてみた。
「でもキミは太っているじゃないか。食べ物はあるんだろう?」
呆れた顔をして猫は再びそっぽを向いた。
「キミはきっと好きな食べ物があるだろう?それを食べている時はさぞかし幸せだろう」
少しの沈黙の後に猫は立ち上がり、振り返って奥へと歩いていく。
「そうさ、わたしだって何も食べてないわけじゃない。でも、野草なんて食べてもお腹は痛いし、肉の切れ端を食べても気持ち悪くなる。雨水なんかじゃ喉は潤せない。なんでもかんでも食べてみたさ。だけどわたしは飢えて飢えて仕方ないんだよ。どうしてだろうね、それの果てにわたしはニンゲンに話しかけてしまったよ」
なにを言えばいいのかわからなかった。そもそもなにが言いたいのかもわからなかった。
路地裏の奥に着いた猫がこちらを振り返るのを見て、僕は口を開いた。
「だけど、これだけ話す余裕があったんじゃないか。まだ元気そうに見えるよ」
またも少しの沈黙が訪れた。
そして小刻みに笑いに震えながら猫は言う。
「ふふっ、そうだね。その通りかもしれないよ。どのみちキミは何も持っていなそうだし、残念ながらお話しに意味はなかったね。失礼するよ」
猫はミャーォと鳴いたのを最後に塀の向こうへと飛び跳ねて消えた。
少しだけぼんやりと過ぎ去る様子を見ていたが、やっぱり元気なんじゃないか、と心で呟きながら、僕は大通りに戻った。
もし、次に会うことがあったら…
そんなことを考えて、携帯用にちっちゃなジャーキーとサラダチキンをコンビニ買って僕は家に向けて歩き出した。
それから僕は猫に話しかけられたことはない。